誰のために世界はあるか?

 
今日また、誕生日がきた。
その2日前には米国で大惨事が起きた。
2日後には出産するために渡米する予定で、これを書いている今もどうなるかわからない。
ニュースを見て眉をひそめていればいいだけではない、いたたまれなさに、考えを綴ることにする。

昨日は番組を変更していた民放も今日はバラエティ番組を再開している。政治家は一つ事が起きれば、報復、対策、と形になる行動に出ようとし、事の大きさによる差異こそあれ、立場を守った対応に終始する。
そして、悲劇の被害者となった人々とその家族は永遠に事件の中心にいながら、年月の中ではいつかの多くの事象のなかの一部分でしかなくなっていく。

それを儚んでも仕方のないことはよくわかっているが、こういった事が起きると、その人その人の境遇がいかにまちまちで、とどりしまつないことなのかがよくわかる。
そして結局、ひとは「自分」に還っていくしかないのだと思わざるを得ない。

そもそも、天変地異を除いた事件、惨劇、悲劇はなぜ起こるか。それはどこかに潜んだ人間の身勝手な思惑がもたらすものに違いなく、それにきっかけや偶然が絡んで現実となる。自我を持つ動物の最高峰として地球上に棲むにんげんの、愚かさと知恵こそが、これまでの史実をつくりあげ、今後もそれはずっと続く。

自分は何をしていくのか、何を求めていくのか、何をしなくてはならないのか、良識のもとに行動できるにんげんがどれだけいるのか。

けれど、私自身も、結局は一個人に過ぎないものだから、SOHOで稼ぎ、合い間に庭や畑を手入れし、来月からは生まれ出た子供の母親となる以上、その領分を守ることから始めざるを得ない。その中でより正しいことは何なのかを見極めていくしかない。

ひとの人生はそのひとのものであり、そのひとのためにある。けれども、社会生活上、世界はそのひとのためだけにあるのではない、ということも同じぐらいに正しい。
 

(2001年9月13日記す)